オッペンハイマーを観たよ

先日より日本での放映が開始された映画「オッペンハイマー」を観てきた。

あらすじ等はリンクを参照。

www.oppenheimermovie.jp

これの感想を書いていくので当然ネタバレも含まれるのだが、最初にネタバレを含まない所感諸々を書いていきたい。

まず前提として、自分はこのオッペンハイマーという人物の存在に対して「名前をどこかで聞いたことがあるような気がするが定かではない」レベルの認識しかなく、映画自体に関しての事前情報はTwitter(現X)のTLに流れてくるふんわりしたあらすじ(とちょっとした背景解説)のみで挑んだ。作中の”核”となる「マンハッタン計画」についても、そういうものがあった程度の認知度。また、当方人の顔と名前を一致させるのがアホほど苦手民族なので、作中にいっぱい出てくる人たちのことを多分半分も覚えられていないし、加えて海外の文化的なアレコレに対しても教養が薄いので、この作品の半分ぐらいの要素を理解しきれていない自信がある。それでも、恐らく個人的に捉えておきたい要素・描写については十分理解できたつもりだ。ちゃんと見ていれば事前知識が乏しくてもちゃんと伝わってくるはず。「戦時中のこと全然詳しくないし・・・」と鑑賞を躊躇っている人は全然安心して観に行ってくれ。フィーリングが重要だ。

監督はあのクソ難解で上映時間の長い映画ばっか作ってるクリストファー・ノーラン。コイツの特徴はクソ難解なストーリー・表現と、劇場での鑑賞価値を十二分に高める映像効果・音響にある、と思っている。ストーリーは基本的に史実に基づいた展開なのでそこまでではなかった(気がする)が、残りは通例通りであった。核実験の様子やオッペンハイマー自身の心境表現の部分(ネタバレ込みのパートで改めて言及する)でここが大きく活きてくるので、この映画を観て最大効果を得たいなら映画館での鑑賞を推奨する。(ワシは大体の映画に関して「映画館で観ろ!!!」と喚くので参考程度に)

ただ一つ、そんなこと思っている人は読者にいないかもしれないが、一応注意しておく。原爆という、本邦においてデリケートな題材を扱ってはいるが、この作品は「戦争や核兵器は悲惨!悲惨!!悲惨!!!」という感情がベースの作品ではない。オッペンハイマーという一人の物理学者の経緯と心境をノーランが解釈して描く、娯楽寄りのドキュメンタリックな映画作品である、という見解がここにあることは意識していただきたい。

 

さて、ネタバレ無しの所感はここまでとする。ここから先は地雷原だ。地雷探知機を使え。(ディープ・スロート

 

ネタバレ込み所感(クリックで展開)

言いたい要素をとりあえず並べて書いていく。記憶ガバガバなのでいろいろ間違ってるかも。どうかご容赦いただきたい。

ロスアラモスで広島への原爆投下を報じたラジオが流れた後の演説シーンに、自分がこの作品で最も確認したかった部分が詰め込まれているように思う。入場時に観客たちが鳴らす足の音や、一言ずつ話すたびに上がる歓声、演説中に歪んでいく背景が、視覚と聴覚にしつこいほど入り込んでくる。世間の評価と自身が思う所業のギャップが現実を歪めるほどに開き、視界は一瞬核の光に飲まれる。ノーランお得意の映像表現と音響によって、オッペンハイマーの心境を効果的に表すシーンであると考える。劇場で観たときに喰らった圧が凄い。そして、演説を終えてその場を去る彼の足元には黒い塊が転がる。まだ彼が投下後の実際の効果を知る前のシーンだからこそ、投下後の悲惨さを思い続けていることを表しているように感じる。

その後、投下後の現地の写真(と思われる)をオッペンハイマーたちがスライドで確認するシーン。スライドが切り替わるたびに引きつった声が上がる中、彼は途中から目を伏せる。それが直視できない程悲惨であることは、それを学んでいる我々日本人のほとんどには安易に想像できるが、アメリカはそうでない人の方が多く、彼ら彼女らに『悲惨さ』を伝えるシーンとしては、これらが最も大きく働いているのではないだろうか。

音響絡みでもう一つ、序盤で出てきた「数式は譜面だ」という台詞の後。オッペンハイマーが計算ガリガリしてるシーンの劇伴がメロディアスで如何にも音楽的なものに変わるところにサスガダァ...となる。その数式から生まれる音楽も、後半になるにつれて現実に与える影響に応じた曲調となっていた、気がする。ともかく、この台詞が作品における劇伴の役割を強調してくれているように感じて、とても印象深い。映像・音響拘りマンのノーランらしいとも言えるかも。

そして、作中で数回言及された「核分裂の連鎖が止まらず、大気を燃やし続ける」現象。結局理論上でも"ほぼゼロ"で、実験時はその通りにはならなかったわけだが、映画の最後に高等研究所の庭でオッペンハイマーアインシュタインに「壊してしまった」と語り、世界が核の連鎖によって燃やされていく・・・と思われるイメージ。一時賭けのネタにされるほど冗談めいた扱いをされていた現実離れの現象が、そのままではないとはいえ現実のものとなりつつある恐ろしさ。正直、大戦とその前後の話というのは平成生まれの自分には遠い出来事で、どうしても現実感を得るのが難しいのだが、これを最後に示されることで一気に現実味を感じたし、この映画を観た意義が大いにあったように思う。(このあたりはメタルギアを履修していた功績が大きい気もするが・・・)

あと、映画本編とはズレるが、本公開前に広島や長崎で試写会があったとのことで、事前評では「被害者側の悲惨さを描いていない」という不満もあったそうだ。暗喩的ではあるがちゃんと描かれてるし本当に映画観たのかお前?と言いたくなる所だが、そもそも作品の趣旨がそういうのと違うし、そういうのを求めて観に行くと不満なのは理解できる。ノーランって基本クソ難解だし・・・悲惨さを前面に押し出したいならはだしのゲンあたりがいいんじゃないかな。いや、あれは登場人物たちがパワフルすぎるか・・・

と、ここまで核実験とその後の実戦使用、それによるオッペンハイマーの心境について言及したが、本作は終戦オッペンハイマーにかけられたスパイ容疑や、それに絡んだ政治群像劇も冒頭から時系列入り乱れて展開される。その辺が登場人物の名前と顔を覚えられないとちゃんと理解できないちょっと痛い所で、かつノーランの描くドラマらしさが一番表れる所でもある。故に自分は理解しきれていないので、この辺は解説等で補足することにする。

 

ネタバレ終わり!

こんなところだろうか。1か月以上放置してるしそろそろ日記を・・・と思っていたのに映画の感想になってしまった。まあ、その時思ったことを書き留めるという意味では同様の趣旨なので良しとする。日記はまた今度。

ところで、この映画を観る前にこんなことを呟いていたが、

よくよく考えたらそんなことはなかった。被爆国当事者だからって核開発研究者のことまで知らなきゃいけない義理はないし(義務教育で受ける戦時中の様子というのは戦争における『悲惨さ』という側面しか得られない場合が多く、戦争に付随する様々な背景や状況を知ることは反戦を唱える上で非常に重要でありこそするが)、映画でなくても作中の背景や状況を知る手段はいくらでもある。ただ、この映画を観ることに「知る」手段としての意義は確かにある、とだけ伝えておきたい。